子七人,孫十九人

先日栃木にいたのですが,父方の祖母の葬儀でした.御歳95歳.立派な大往生でした.
生前会社を経営していたり,趣味が豊富で80過ぎても近所を自転車で移動して廻るなど活動的な方だったので,てっきり100まで生きるかと私が勝手に思っていたこともあり,少々意外でした.ですが,常識的に考えればいつかは分からないけど“近いうちにおきる可能性が高い行事”であったことも確かです.

私自身はどう思っているかというと,残念だなぁと思ってはいるものの,それほど落ち込んでいるわけでもないです.
同居期間が幼少期のほんの少ししかなかったことと,仙台に落ち着いてからは,たまに挨拶に行くか,冠婚葬祭の行事のときに顔を出す程度だったのがその理由だと思います.

一緒に住んでいた家族や近所に住んでいてよく顔を合わせていた親族は一様に悲しんでいたので,共に過ごす時間が長いほど,故人に対する思いというのは強いのかもしれません.

私自身も悲しんでいないわけではないのですが,非常に個性が強かった祖母のエピソードを思い出しながらそれを多少面白くブログに綴るのも供養になるのかなぁと思いながらつらつらと仙台の実家のパソコンから書いている次第です.

まず驚くのは兄弟の多さ.父は七人兄弟の次男でした.戦後の混乱期に7人の子供を育てるのはそれはそれは大変だったはず.どうも幼少期の話をいろいろ聞くと,食べ物の奪い合いで喧嘩などは日常茶飯事だったらしく,その影響か,父方の親族は男も女も自己主張がしっかりしていて気の強い人が本当に多い.

どちらかというと物静かな私は父方の親族からはちょっとした珍獣扱いでした.まぁ,けど,あの人たちとまともに渡り合っていけるとはちょっと思えないのも事実.

祖母と最後に話をしたのは3/11の震災の時でした.仙台の実家からの電話が通じず,浜松にいた私が代わりに仙台の無事を伝えたのですがその時に電話に出たのが祖母でした.

私:“尚志です.”
祖母:“どちら様ですか?”
私:“(あぁ,まずいなぁ,多少記憶があやしくなるときがあるとは聞いていたけど.....)”
私:“○○(父の名)の次男の尚志です.仙台の.孫の尚志です.”
祖母:“あぁ,尚ちゃんかい.”

よかった,思い出してくれたらしい.その際に地震は起きたけど,仙台の人間は無事でいること,電話がつながらないことなどを伝え,無事役目を果たしたと安堵しました.

葬儀の際に分かった話なのですが,どうもこの時のことは,誰かから電話があったとしか伝わっていなかったようで,伯母とこんな会話になったそうです.


祖母:“なんか電話があったけどよく分からなかったな.”
伯母:“それ仙台からじゃなかった?どんな内容だったの?大丈夫そうなの?誰も怪我してないの?”
祖母:“誰か良く分からなかったけど声が元気そうだったから大丈夫なんだべ.”


いや,間違ってないけど.....
なんというか,多少記憶があいまいでも肝が据わっているというか.
戦中を生き抜いた世代はやっぱり何かが違う.....^^;


葬式の席で義理も含めると10人以上いる叔父,伯母,そして18人のいとこの顔と名前が本当に一致しないので,これはいかんと思いちょっと家系図を書いてみました.孫の代の婚姻関係を書くのがめんどくさくなったので,6人のひ孫は割愛.ですがなんとも子孫繁栄な立派な家系図です.強い遺伝子というのはこういうことなのかもしれません.



そういえば,この7人の子と19人の孫の大本である祖母の夫,すなわち私の祖父なのですが,私が幼いころになくなっているので,正直ほとんど記憶がありません.名前なんだったっけ.....



“七?”.....


謹んで故人の冥福をお祈りしたいと思います.