読書の秋その2

引き続き,山田ズーニー氏の本を読んでいます.一冊目に“大人の進路教室。”,二冊目に“話すチカラを作る本”.今,三冊目の“おとなの小論文教室。”を読んでいるところです.

現在の私の境遇はと言うと,所属していた会社を辞し,なんとなく前々からやろうと思っていたことに着手.そのことの意味,意義みたいなことをバイト生活をしながら自分の生き方を含めて悩み,惑い,そして手を動かす.そんな日々を経て10ヶ月です.こんな身の上だといろいろな人からの質問の言葉が以前とは大きく違った意味を持った言葉として聞こえてくるわけです.


・お金になってるんですか?

かつての同僚の言葉です.今,私はそのことを考えるのを後回しにしています.なんとなくの直感なのですが,今やらなければいつやるんだろう?今しかできないのではないか?なんとなく今の自分に運命の邂逅のようなもの,生きる意義のようなものを見出しかけている自分にとって上記の言葉に対しては,“いや,多分今それどころじゃない.”そんな感じなんです.その今がいつまでなのか,ずっと続くものなのか?私にも掴みかね,真剣に悩んでもいるわけです.


・地に足のついた生活をしなさい.

家族の言葉です.地に足のついたってなんだろう?私はこの意味を本当に真剣に悩みました.仮に今どこかの会社に再度就職したとして,意に沿わぬ仕事をしたとしたらそれは何のため?目的が分からないまま人生の時間の大部分をその目的があいまいなもののために費やすこと=地に足がついているなのだろうか?
会社などのような組織に属している人は,自分の目的を持ち,その目的が属している組織の目的に合致し,そして世間一般的な視点から見て,“地に足がついている.”....大部分の人がきっとそうなのでしょう.そう願ってやみません.

この言葉を出した家族に私ができることは,自分の状況を明確に嘘偽りなく情報公開し,近況の連絡を欠かさないことでしょうか.


・やっていることに出資しましょうか?

こんなありがたい話が実際にあったかどうかの事実は別として.出資の申し出があった場合,果たしてその意味は?今の状況で出資を受けるというのは今後の自分や自分の活動にとってどういう意味を持つのだろう?これは今の私にとって本当に根の深い問題です.まぁ.もちろんこの問い自体が冗談なのだと思いますが,これに対してうまい冗談を切り返す余裕もない自分の器の小ささを改めて認識する次第です(苦笑).もちろんまだ何とか私個人でやってます.


こんな私の状況で書籍を通して出会った山田ズーニー氏はなかなかいい表現をしてくれます.以下“おとなの小論文教室。”からの一部抜粋.

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自分の体の中に,「好きなこと」「やりたいこと」が宿るというのは,女性が子供をさずかるように,不確かで,だからこそ,感動的なものだと思います。
体の中に宿ったそういう想いは,胎児のように,ある意味では強く,ある意味では,非常にもろい。
目前のやるべきことのために,今やりたいことを,おあずけにしておく。何年後かにやろうと思う。ところが,「べき」で身を固めていくうちに,何がやりたかったのか,わからなくなってしまう。せっかくやりたいことができる時間やお金が整ったときには,もうどうしようにも,「好き」とか「心からやりたい」というものがさずからない体になってしまうということがあるようです。
そういうものがさずかったとき,どうやって守り抜くか?
心からやりたいこと,好きなことを堕胎するようにして,生きている人がいるとすれば,その人が,日々,得ているものは何なのだろう?

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私が今感じている悩みや苦しみというのは,“産みの苦しみ”に似ているのかもしれません.....